寺歴
神亀五年、海上に
光を放つものあり
『飯沼山観世音縁起絵巻』などによると、神亀五年(728)の春、銚子の浦が荒れて漁ができなくなり五月に皷が淵の沖の海上が光り輝いたある夜、漁師の清六が、「輝いているところで牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよ」との霊夢を見た。翌朝、沖に出ると同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たので、二人で網をおろしたところ、左の脇に瑪瑙(めのう)をはさんだ十一面観音が出現した。二人は出家して草庵を結び尊像を安置加持して諸人の病を癒したので、虐除(ぎゃくよけ)法師と呼ばれたと伝えられる。
天平年間(729~749)になり、行基菩薩がこの奇瑞を耳にして、厨子を作って奉納した。しかし尊像のほうが少し大きくて入らなかったので、行基が祈願すると、尊像は首をたれて、みずから厨子に入ったという。
後に、弘法大師が東国を巡錫した弘仁年間(810~824)、この尊像を拝したが、海中出現のままの姿だったので、台座や光背を作り、開眼供養をおこなった。そして、下総国の守護千葉氏の系統を引く海上長者が、尊像と大師に帰依して、壮大な伽藍を天生六年(1578)建立したとされる。
その後、安永二年(1773)に10間四方の銅葺に改築され仁王門、鐘楼堂、多宝塔、大師堂など大小さまざまな建物が整備され、戦前まで豪壮な姿を見せていたが、太平洋戦争で堂宇は焼失した。
貴重な寺宝の数々
観音堂は圓福寺の本堂で、昔は境内地であったが、太平洋戦争の後、本堂と本坊が離れた。本坊には、大師堂、地蔵堂、竜神堂・閻魔堂・涅槃堂などが立ち並んでおり、間口12間・奥行8間の瓦葺で大師堂と称し、客殿庫裡が連なっている。
また、天保水滸伝で知られた侠客銚子の五郎蔵の墓もここにあり、本坊には五郎蔵の倅勝五郎と飯岡の助五郎寄進の大きな銅壺がある。
寺宝としては、重要美術品の「奈良時代銅造鐃」や、享徳在銘の銅鐘、天正墨書銘の戒躰函、貞享年間刺繍大涅槃像図、建武、明徳、文安、天文年間書写の貴重な古文書、また国木田独歩の父、国木田専八が乗っていた竜野潘 神龍丸の舟道像などが保存されている。
飯沼観音(本堂)境内には仁王門、大仏、五重塔、鐘楼堂、また本堂内天井画、境内には日本選奨土木遺産の飯沼水準原標石(日本における河川測量の原点)などがある。
そして、
銚子の繁栄へ
圓福寺が札所に推挙されたのは、鎌倉幕府に重きをなした東氏や海上氏によって支持されたからといわれる。
そして諸国から飯沼観音に巡礼が集まるようになると、今日では26番の清滝寺から土浦、佐原を経て車で約2時間あまりの行程だが、当時は陸路でも水路でも、巡礼は銚子で一泊を余儀なくされ、さらに28番滑河龍正院へは約50キロ近くあり、どうしても宿泊地としなければならなかっただけに、門前町として発展し、今日の銚子繁栄をもたらしたといえる。
飯沼観音境内にある銚港神社は観世音示現と共に海中より出現の馬脳石がご神体で、明治2年までは「竜蔵権現」と称し、飯沼観音の鎮守であった。